自分がどうあるべきかは、自分次第という意味ではない
自分があるべき姿
私は、常々、他人がどうあれ、自分があるべき姿を求めていくと言うことを言っておりますが、たまに言われるのが、『そうですよね、他人を変えるにはまず、自分が変わらないといけないですよね!すべては自分次第ですよね』って言ってくださるかたがおられるんですが、それは否定しません。
他人を変えることはできない、そこは通常認識です。
ただ、自分があるべき姿を追いかける中で、相手がその姿を見て、変化することはあるかもしれませんが、それは狙いではなく、副作用だと思っています。
なんか抽象的ですね今回も😅
とりあえず、自分があるべき姿を追求するとはどういう感じか、規模を縮小し、日常に当てはめて説明してみようと思います。
例えば、私が今日、会社でトイレ掃除をやる順番だったとします。
そして、それを忘れていたとしましょう。
思い出して、やり始めようとしたら他の人が気を利かせて、タガコーさん、今日は自分がやっておきますね♥️とやり始めてくれていましたと。
しかし、それに気づいた別の人、仮にAさんが、タガコーさん掃除しなきゃダメじゃないですか、と指摘してきます。
『そうなんですよ、忘れてまして申し訳ない』
とAさんに答える。
それを聞いていた、トイレ掃除を代わりにしてくれていた子が、『Aさんに謝る必要なんかないじゃないですか。あの人は自分の事ばっかりで、大した仕事もしないくせに偉そうなんだから』と言う。
実際のAさんは、自分のやることのために、他人が迷惑を被っていても気がつかない人で、周りも良く思っていない。
しかしながら、タガコーがトイレ掃除の役割を忘れていた事と、指摘してきたAさんの人間性は、その事とは無関係なのです。
私が申し訳ないと言ったのは、自分がするべき事を忘れていたという、今回の事案に関しての事であって、Aさんの人柄や、普段の行動がどうとかは関係ないわけです。
単純に、自分が悪かったことは謝る。
その場で、『自分の事しか考えてないAさんにそんなこと言われる筋合いはない』なんて言って、周りが味方してくれたとしても、それは自分の値打ちを下げる事にしかなりませんよね。
だから、悪かったことは素直に悪かったと認める。
そして次から忘れないようにする。
自分がやるべき事をやっているか、それが正しい姿か、単純に今回は自分がやるべき事を忘れていた、忘れずちゃんとやるのが正しい、次はちゃんとやろう、それが自分のあるべき姿を追いかけるってことの最小単位であり、基本ですね。
その結果、その自分を見て、他人が変化するかもしれませんが、それは変えたのではなく、その人が変わっただけの話で、やっぱり狙ってできるもんではないでしょうね。
そうしていれば、他人に注意しなければならない局面でも、周りの人に、注意する資格ないでしょ、なんて、Aさんのように思われないでしょう。
判断基準は、自分が正しい行動をしていたのか、自分にとってではなく周りにとっての最善の判断は何か、という観点で見ていれば、目先の事に腹をたてたりすることなく、冷静に判断できるなーと思いながら、、、
今日も修行です。
他人は変えられないけど、自分の姿をみて変わってくれるかもしれません。
でも、それは私が変えたのではなく、その人の心が変化しただけで、やはり狙ってできるもんじゃないですね😅
今日も何かを得ようと思います。
タガコー日記でした(^-^)v